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2010年1月 7日 (木)

踏み出そう・・・

昨年から不運続きの私を応援してくれてる皆さん、いつもありがとうございます。

まずは父のこと・・・。

入院中だった父 回復の一途を辿っているのもばかりと勝手に思ってました。
母からのメールで ちがう病状が出てきてしまったと知らされても そんなのへっちゃら!
だって治るもん! って思ってました。
私が早く退院して 父の看病を母と代わってあげなきゃ!と思ってました。

父の死は リアルタイムに私の耳には入ってきませんでした・・・
だから ナナココ一家さんがお見舞いに来てくれた時も フォルパパ&フォルママ タロパパさんが来てくれたときも
私は父が亡くなったことを知りませんでした。
その日の前夜から 若干発熱気味だった私。今までの過程を振り返ると このままの微熱で済むワケが無いことも経験済みなので
高熱が出ることを予想してました。
でも 今考えると この高熱は 死と闘ってた父から伝わったものではなかったのかと・・・
丁度 父が息を引き取ったあたりの時間、38℃の熱が出てました・・・。
そしてその熱は 最高39.2℃まで上がり とらぱぱの心配はMAXでした。
とらぱぱは高熱に苦しむ私に 父の死を知らせませんでした・・・。
父が亡くなった日の夜、とらぱぱの様子がヘンだということには気づいてたけど
その理由を聞く勇気が私にはなかった・・・ きっと父の容態が思わしくないのでは・・・?とも考えたけど
怖くて怖くて聞けなかった・・・。熱のせいで 気弱になってた部分もあったのだと思います。

そんな時にブログ更新。熱のことは書かなかったけど。
その内容を読んだ母が 「由紀が不憫だから もう知らせてあげて!」ととらぱぱに電話をしてくれました。
その翌日、私に父の死が知らされました・・・。フォル家とタロパパさんがお見舞いに来てくれた30日の夕方の事です・・・
とらぱぱも精神的にキツかったと思います。こんな大事なことを 私の体調を気遣って黙ってなきゃいけなかったのですから・・・。

「なんで・・・?」
そんな無様な言葉しか出てこなかった・・・。情けない・・・

大声で泣き叫ぶこともなく 呆然と涙を流すことしかできませんでした・・・。

4人の入院患者さんと同室で過ごしてる私には 周りの方に 私の身内の不幸で気を遣わせる事が
苦痛でした。日中も楽しくおしゃべりしてるのに 私の父の死が原因で 仲良くおしゃべりしてる雰囲気が
壊れるのがイヤでした。
なので 誰にも打ち明けず 気づかれないように涙を流し 鼻をかみました。
1人になれる瞬間は 結局入浴中しかなく シャワーを流しっぱなしにしながら 大きな声で泣きました。

「ごめんね・・・ごめんね パパ・・・ 行けなくてごめんね・・・」

そう。本来なら危篤の知らせや 訃報が届いた時点で父のそばに向かうのが常識。
でも 私にはそれが許されなかった・・・。

今回の化学療法で 治療の過程として その頃が一番白血球の値が低い時期でした。

体が外部からのウィルス、細菌に対し 最も弱い時期・・・。
この年末年始に新幹線で福島に向かう事は 自らすすんでウィルスや細菌をもらいに行くようなもの。
対策がないわけではなかったし 主治医の先生たちからも
「お別れにどうしても行くのであれば 最大限の努力と協力は惜しみませんよ」
という 心強いお言葉もいただいたのですが
私の命を優先するとらぱぱから OKの言葉は出ませんでした。

それも頭の中では納得できても やはり父に会いに行きたい気持ちは捨てられません。
「きっとスーパーマンがやってきて 私の体を抱いたまま空を飛んで 父に合わせに連れて行ってくれるんだ!」
などという夢物語を 描いたり
「幽体離脱 してやる!!」と横になって念じてみたりもしましたが どちらも失敗に終わったようです・・・。

今回の化学療法を最後に 抗がん剤とおさらばする私。その後の継続治療は 私の白血病の「型」がそれを無意味とするので
施されません。
採血と数ヶ月に1度の骨髄穿刺で 経過を観察するのみです。
その「経過」ですが もしかしたらまた白血球の数値がおかしな事になったりするかもしれません。それが「再発」です。
これから先、私がもっとも恐れるのはこの「再発」です。
比較的、予後が良好と言われる私の白血病の型ですが 再発がまったくないわけではないのです。

おそらく30~40%の患者さんが 再発してます。そして再発してからの治療は また生存率が低くなります。
昨日夜、よせばいいのに 検索しちゃいました。私の5年後生存率・・・
パーセンテージでいうと 皆さんよりずっと低いですよ。
だからとらぱぱが OKを出さないんですね。この温室のような病室から 出したくないんです。
絶対の安全が確認されるまでは。

今さら 私は神も仏も信じません。
だってそんなのいないもん。いたら 私だけ こんな病気にされ父の死に目にも逢えない運命なんて
ひどすぎて与えないのが 神とか仏でしょっての!!人はそれを試練とかっていうけど
実際、こんな試練なんかいらないよ。こんな事しなくたって 私、人並みに人を思いやる気持ちや 慈しむ気持ちくらい
父と母の教育の中で 学んできてるつもりだったよ。
まぁ、これからは神とか仏より もっと偉大な『父』という存在が 私を守ってくれるので そんなもんいなくたって平気さ!

その父の話に戻りますが 最期のお別れに行けない事がどれほど私の悲しみを大きくした事か・・・
「仕方ない」という言葉以外 これほど究極の諦めを私にさせる言葉は なかった・・・。
運命を恨みました。とことん恨んだ。
父の最期を見届けることも 母を慰めることもできないなんて・・・。

「火葬」・・・
その瞬間の時間が来るまで 心の中ではさっきも書いたとおり スーパーマンがやってくると信じてた私。
でも 残酷にもその時間はやってきました。
「もう、父の亡骸に逢うことはできないんだ・・・」
そう思うと 当たり前ですが涙が出ました。でもちょうど看護師さんが薬を持って病室にやってくる時間と
重なり 思うように手を合わす事ができずにいました。
そして 看護師さんが立ち去った後、布団の中に両手を隠し 手を合わせうつむくようにして祈りました・・・。
そうすることでやっと諦めがつきました。
だって もう父というカタチは なくなってしまったのですから・・・

親不孝・・・
そんな言葉を使って ブログを書いてしまったら 何人もの方から
「親不孝なんかじゃないよ!!そんな風に思わないで! お父様が余計悲しみますよ!!」
という内容のメッセージを頂きました。
ここでも 「どうして たかだか私みたいなニンゲンに こんなに親身になって心配してくれるんだろう・・・」
という ありがたい疑問にぶつかりました。
でもやはり 父とのお別れには 立ち会いたかった・・・。
理屈や道理は理解できても 逢いたい気持ちは誰にも負けなかった。
親不孝・・・ではないそうです 私。
皆さんのお陰で そう考えれるようになりました。
でも やっぱり逢えなかったことは 自分不幸だと思ってます。運命を恨んでます。
そこは私の好きにさせてください。

どうも あまりに長くなりそうなので 今日はこの辺でおしまいにします。
コメントをいただいた皆様へのお返事は 明日以降必ず書かせていただきますので
どいうか もうしばらくお待ちください。

誕生日のメッセージも届いてます。そちらへのお礼も必ず!!

41歳となりました、とらまま♪ 今日は最強家族が勇気を授けに来てくれました!!

本当に周りの友人には最高に恵まれてる私。
天国の父も この自慢の友人達に囲まれる私を 目を細めて眺めていてくれることでしょう★

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